サハリンプロジェクト:夢か悪夢か? 第1部

サハリンプロジェクト:夢か悪夢か? 第1部

「石油」は、永遠の富の夢を見事に表している。汗や苦悩やつらい労働によってでなく、幸運のキスによって達成される富の夢を。この意味で、石油はおとぎ話のようであり、すべてのおとぎ話がそうであるように、ちょっとした嘘なのだ。

リシャルド・カプシチンスキー Shah of Shahs より

シェル、三井、三菱の所有するサハリン・エネルギー社は2002年の上半期に約90億ドルを投資し、世界最大規模のLNGプラントを建造しようとし ている。プラントはサハリンの南端に建造され、広大なサハリン II と呼ばれる鉱区(サハリン島北部沖)から、日本、韓国そして台湾へ天然ガスを輸出する計画だ。これに対抗して、アメリカのエクソンと日本のSODECO (丸紅、伊籐忠)が率いる合弁企業は、同様に広大なサハリン I の鉱区から東京と新潟へとつながる2,300kmの天然ガス・パイプラインの建設を支援するよう(つまりは、資金を出すよう)日本政府に強く働きかけてい る。

サハリンの天然ガスは、そのいとこ関係にあたる石油と共に、日本にとっては非常に重要であり、これからの数十年、日本政府の尽きぬ関心事であるエネ ルギー安全保障に、大いに役立つ回答になるだろう。またもちろん、サハリン天然ガスは、日本だけでなく世界最大のいくつかの企業の貸借対照表を大いに潤す に違いない。

しかし、これらの開発がサハリンの人々、経済、また自然環境にとって喜ばしいことなのかどうかと言えば、それほど明らかとはいかない。これから検討するように、この開発はサハリンのみならずオホーツク海と日本海北部の生態系に、破壊的な脅威となる可能性を秘めている。

近代のはじめに、ロシア人と日本人がこの島を、先住民であるアイヌ、ニヴキ(ギリアーク)、オロックといった人々から奪い合ってからの2世紀を溯り、この石油と天然ガス鉱床の巨大な開発にいたる小史を振りかえっておこう。

1890年、若き医師にして作家、アントン・チェーホフは、帝政ロシアの流刑地であるサハリン島を調査するためにロシアとシベリアを横断した。モスクワを発つ前に様々な文献を広く読んでいたけれども、チェーホフが見たサハリンは想像を超えるものだった。

「私はセイロンを見たが、それは天国だった。そしてサハリンを見たが、それは地獄だった」 チェーホフ

15年後、日本との戦いの敗北と1905年の革命に揺れた皇帝ニコラス2世の政府は、ロシア支配下にとどまったサハリンの半分でこの残酷な囚人(男 女を問わない)の流刑地制度を放棄した。ロシアは流刑地制度に代えて、自由な開拓者を奨励し、島の豊富な天然資源の商業的開発を奨励した。そのうち最も重 要なのは──今日もそうであるように──石油であった。

サハリン・日本・炭化水素 第一ラウンド

当然、ロシア統治下のサハリンに埋蔵しているかなりの量の石油に、日本政府、とりわけ日本帝国海軍は、大きな関心を寄せていた。1919年、シベリ アの反ボルシェビキ・白ロシア政府は、三菱鉱業率いる政府賛助の民営合弁会社、北辰会に、北サハリンの油田を開発する権利を与えた。

ロシア革命の影響はついに北サハリンにまでおよび、1920年1月に極東ソビエト行政府が短期間ではあったが、設立された。これに応じて、当時すで に10万人をシベリアに出兵させていた日本政府は、樺太から北サハリンへと侵攻し、傀儡白ロシア政府の「サハリン自治州」を設置し、油田を直接支配した。 6か月後、内閣はサハリンの石油採掘に1,400,000円の海軍臨時軍事費を提供し、北辰会は1920年から1925年の間に、毎年100,000トン の石油を日本に送った。

傀儡政府下にあり、すぐ近くから手に入るサハリン石油という新しい資源は、願ってもないものだった。というのは、日本国内の石油の生産高が落ち込ん ているにも関わらず、1925年には、消費高は84万トンにも達していたからである。ロシア人居住者は厳しい圧政下におかれた──幾人かのボルシェビキの リーダーは銃殺されたり、あるいはもっと簡単に、沖に連れ出され船から海中に投げ捨てられた。ロシア統治下にあった2世紀のあいだもそうであったように、 アイヌ、ニヴキといった先住民たちも、ロシア人とともに脇においやられ、土地、森林、漁業資源、そして石油資源が奪われたのだ。

しかし、1925年に調印された日本政府とソ連の北京条約で、ある種の平和がサハリンに戻った。合意のもと、日本の軍隊は南樺太に引き上げた。しか し、北辰会の後継者である北樺太石油会社──社長は退役将官──は、北のサハリン油田の半分の権利を保持した。1926年から1944年の間に、100万 トン以上の石油がサハリンから日本へ輸出された。

サハリン・日本・炭化水素 第2ラウンド

日本が長期間経験したサハリン石油との関わりは忘れ去られていなかった。1970年代のオイルショックの衝撃で日本政府はエネルギー資源を確保する 必要性に迫られ、サハリンでの探鉱は再び日本の標的になった。国家エネルギー安全保障戦略は、原子力を強調するとともに、オーストラリア、マレーシア、カ ナダ、その他の供給国から幅広く獲得される安定した資源の炭化水素燃料である石炭、石油、天然ガスを重要視した。サハリンの石油と天然ガスの埋蔵量が膨大 であることはすぐに判明したが、その多くは海底が浅く、波が荒く、一年のうちほとんどの期間凍りついてしまうオホーツク海の沖合いにあった。

しかし、政治的な問題と、とてつもなく荒い気象条件下での沖合いでの生産技術が未解決であること、それに資金調達の難しさという組み合わせは、サハリンの石油と天然ガスに対する海外からの投資を踏み留まらせた。

1990年代の初めまでに、これらの障害の、少なくとも一部分は改善された。サハリンは第2次世界大戦後のソ連の最も隠された部分であった。点在す る千島列島に沿い鎖状に連なる空軍基地と海軍基地、海中の音波探知装置とともに、サハリンはオホーツク海を防衛する数多くの空軍・海軍基地がある場所であ り、ソ連の核抑止の中核をなす弾道ミサイル潜水艦の安全な退避地だった。1983年、この地域でソ連の海軍および空軍の極秘基地の上空を通過後に撃墜され たKAL007の事故は、サハリンが冷戦の軍事に深く組み込まれていたことを証明する。しかしソ連崩壊後は、これらの基地とその設備のほとんどが、資金を 絶たれ、保安管理もなく、ただ錆びていくだけだった。

さらに、国家社会主義イデオロギーが捨て去られ、飛び入り勝手の資本主義に熱狂的にとってかわられ、また安定した国庫歳入源が事実上完全に崩壊した ことが合わさって、エリツィン政権もプーチン政権も、海外からのエネルギー投資を獲得することににやっきになった。莫大な埋蔵量の石油と天然ガスの採掘操 業を、可能なかぎり早く始めることができるように、西側の石油・天然ガス企業は、旧ソ連の各方面への働きかけを競いあった。

1つの財政問題はまだ解決されていなかった。つまり、困難な気象条件と場所での膨大な天然資源を開発するための投資負担という問題である。1990 年代、貧乏国となったロシアのような国は、その大規模計画を自己資金で賄うことなど到底不可能であり、西側の国々も寛大であるとは思えなかった。しかし、 解決策は二つのことから出発した。第一には、欧州復興開発銀行(EBRD)と世界銀行のような銀行が、市場相場より低い利率で融資を行うように説得された のである。そして第二に、「生産分与契約PSA」として知られるプロジェクト資金調達の方式が考案されたのである。探鉱、開発および生産プラントのコスト を賄うために西側企業が提供した投資への返済に、プロジェクトから生まれた初期収益があてられることを保証する方式である。いったん、これらのコストが売 上げからすべて回収されると、以降の収入の一部は、鉱山使用料および税という形で、ホスト国政府に流れ始めることになる。しかしながら、あとで明らかにな るように、海外銀行からの投資や生産分与契約は必ずしもそのような穏当な仕方で働くとは限らなかった。(注1)

1970年代と80年代には、アメリカとヨーロッパの技術者は、特に北海やアラスカの厳しい自然条件やメキシコ湾の深海で、海底油田と天然ガスの掘削や生産、そして運搬に関して多くの技術的な問題を解決した。その方法は、極寒での海底油田や天然ガス生産の道を開いた。

サハリン沖の海底油田と天然ガスの現状

調査と生産の目的で、サハリンを囲む水域は、ロシア政府およびサハリン州地方府によって、サハリンI〜VIという6つの大きな鉱区に分割された。そ れぞれの鉱区を調査、テスト、開発する権利は、1990年代にロシア・外国企業の様々なコンソーシアムに分配された。必要な資本が足りないために脱落す る、プロジェクトに対する信頼を失う、または単に企業自身のグローバル戦略上からサハリン・プロジェクトを外すといった理由から、それぞれのコンソーシア ムを形成するパートナーは頻繁に変わった。6つの鉱区のうち先陣をきったのは、サハリン I とサハリン II である。

既に生産された石油の実質量は、サハリンIIが最も抜きん出ている。プロジェクトのオーナーであるサハリン・エネルギー投資会社は、出資額の多い順 に、シェルが55%、三井25%、三菱20%が所有している。シェルはプロジェクトの運営もしている。過去3年、石油はピルトン・アスモフ区の海底と結ば れた巨大な石油掘削基地モリパックから汲み上げられ、6日ごとにタンカーが到着するまで貯蔵され、日本と韓国の市場に向けて運ばれる。生産と輸送は一年の うち、海が氷に閉ざされていないとき(それは一年の半分にも満たない)、さらに悪天候でないときのみに行われる。

サハリン I の次の段階では天然ガスを送る海岸へのパイプラインが、さらに島を縦断し、アニワ湾の液体天然ガス(LNG)生産工場へと敷かれる。天然ガスは、世界最大 のLNGプラントで塵などをとりのぞいたあと、液化され、シェルとそのパートナーが望む、日本、韓国、台湾での市場にLNGタンカーで輸出される。 2001年半ばに、シェルは株主に向け、6ヶ月以内に長期売買契約をとりつけたいと発表した。現在、LNGプラント建設のためのいくつかの契約が発表され つつあり、シェル、三菱、三井の株主と役員は投資した90億ドルを失うことになるかもしれないというニュースを待つことになるだろう。

サハリン I は、運営者でもある米国のエクソン・モービル(30%)、日本のサハリン石油開発(SODECO)(30%)、インドナチュラルガス(the Indian Natural Gas Company)(20%)、そしてロシアの二つの会社ロスネフチ/サハリン・モルネフチェガス(20%)が所有している。石油と天然ガスの埋蔵量が膨大 であると証明されているものの、いまだに開発段階にある。主にそれは、エクソンとそのパートナーの計画が、天然ガスを掘削現場からパイプラインで直接新潟 に、そして本州のもっと南に輸出しようとするものだからである。この計画は、パイプライン建設のおそろしく異なったコスト見積がだされることになったので ある。この不確実性は、天然ガスの購入者に提示されることになるコストに影響し、したがって、確定契約が結ばれるプロセスを遅くらせることになっている。

問題

サハリン I と II は相方とも、日本、韓国、台湾の産業と消費者市場へ莫大な量の天然ガス供給を計画する、非常に大規模で複雑な技術プロジェクトである。実際には契約は結ば れておらず、また、他の天然ガス供給国との競争は厳しい。日本政府にとって、サハリン天然ガスはエネルギー資源地域を分散化し、またエネルギーの種類を多 様化するという戦略から歓迎すべきものであろう。天然ガスを燃焼させたときに発生する二酸化炭素は、同じ量の石油の燃焼時に発生するものよりも少ないし、 石炭に比べるともっと少ない。従って、日本は、エネルギー戦略からも、また温暖化戦略からも、天然ガスの輸入を増加させる計画に傾斜しているのだ。

しかしまだ、サハリン I ・II の石油と天然ガスプロジェクトには、サハリンにとっても、ロシアや日本にとっても重大な問題が残されている。これらの問題(以下に挙げるものを含めて)は、「第2部」で検討したい。

  • 15万トン級以上のタンカーから原油流出:エクソン・バルディーズ号のシナリオ
  • 油井から原油流出、パイプラインからの原油漏れ、船上からの投棄
  • 油井の作業または施設の建設が及ぼす海洋環境破壊
  • オホーツク海と日本海についての国際海洋管理レジームの欠如
  • 原油・ガスの生産活動、タンカー、パイプラインの運用が引き起こす先住民を含むサハリン地元住民社会への衝撃
  • 生産分与契約と雇用形態におけるロシアおよびサハリンの経済的便益についての重大な疑い
  • ロシア経済の天然資源輸出に対する依存度の増加
  • サハリン I のパイプライン計画に支払われる、日本政府援助金を負担する日本の税支払者のコスト
  • エネルギーの化石燃料への集中的化に深くコミットする日本の産業戦略

(第1部 了)

(注1)
西側企業にもホスト国政府にも同様に、PSAは道理にかなった妥協であるように思えた。つまり、ホスト国政府は、望んでいたプロジェクトを開始す ることができ、やがては鉱区使用料を手にすることができる。そして企業は、少なくともコストを回収することが保証され、その後は利益を手にすることができ るはずだったからである。しかし、多くの国が発見することになるったように、ホスト国が鉱区使用料あるいは税金の受け取りを始める以前に、どのコストが賄 われるべきかについて、だれが決定権を持つのかという問題があるのだ。まったくよくあることだが、プロジェクトは「金メッキ」ものであった。言いかえれ ば、鉱区使用料の支払い段階になる以前に、充分な──ということは、不当な──利益を確保しようと、企業は建設コストを水増ししていたからである。じつ に、いくつかの事例では、開発コストはあまりにも高く計算されており、鉱区使用料は結局支払われることがなかったのである。(本文に戻る